大事なのは、行いじゃなくて想いなのかも

なぜアリーナ?無観客ならスタジオとかもっと小さいホールでもいいのでは?

というのが、サザンの無観客ライブ配信のニュースを聞いたときの第一印象だった。

実際に今日の配信を経験して、個人的な意見としてはもっと小さい会場でもいいと思う部分はあるけれど、サザンとしてのアリーナでの開催という選択がよく理解できたように思う。

それはつまり、ここに来たいけど来られない、ここにいて欲しいけど来てもらえない人たちのために、あの場を作ったんだなということ。

 

パフォーマーとして、人のいない客席を前にするほど寂しいことはないと思う。エネルギーの交換ができない。実際桑田さんも、出だしは自分の状態をもっていくのに時間がかかっていたように見える。時々映り込むスタッフたちが仕事ほっぽってフリを踊るのは、その場に少しでもエネルギーを回すためだったのかな。

 

アリーナじゃなく、もっと違う形のステージを目指す道もあったはずだ。サザンメンバーだけで、小さなライブハウスからやるとか。でもあえてアリーナから配信したのは、1つはここにいて欲しい人たちへの想いの大きさから、そしてもう1つはアリーナのスタッフに活動の場を与えるためだったのではないかなと思う。

今回の無観客ライブ配信のチケットがどれだけ売れたのか、果たして費用が賄えるほどだったのかは分からない。でもサザンほどの知名度がないアーティストの場合、こういう試みが赤字になるリスクも当然大きくなる。だから必然的に、もっと小さい場所でという方向に向きやすい。だからこそ、大型の会場も必要なんだよ、そこに意味があるんだよ、アリーナの皆さんにも活躍の場を!というサザンなりのメッセージだったのかなと思った。

 

全てがオンライン化する中で、オンライン前のやり方をそのまま持ち込むことの無意味さもよく指摘される。今回のコンサートも、リスク回避や効率性だけを考えれば、もっといい方法は確かにあっただろう。

でも個人的には、敢えてこの方法を選んだサザンを誇りに思う。無駄があってもいいじゃないか。赤字になってもいいじゃないか(そういえる余裕があることが前提にはなるが)。皆への思いを一番届けられる方法でいいじゃないか。

大事なのは何を大切にしたいのか、その想いがぶれないことなんだなと思った。その想いが伝わるかどうかで、同じ行為でも違う意味で解釈できてしまうのだから。サザンが、桑田さんが、いろいろな大人の事情もひっくるめて今回の挑戦をしたことに、心からの賛辞を送りたい。少しでも多くの人が、サザンの想いを受け取って、その毎日に笑顔が咲きますように。

 

 

細菌のバイオーム

COVIDによる外出制限で、街から人や車がいなくなり、空気がきれいになって動物達が生き生きしている、という記事をいくつか目にする。

ここナントも、普段は常に空に飛行機雲が何本か見えるのが、全く見えない(たしかまだ空港は閉まっている)。確かに鳥達や猫達が、いつもより自由に過ごしているように見える。

でも1月の中国の時点から、COVID関連のニュース映像を見るたびに、私の中では一つの懸念が大きくなっている。それは、消毒という名の細菌バイオームの破壊という懸念。

COVIDの渦中にあって、そういう発言は不謹慎と取られるのかもしれないが、街中に消毒液を散布し、人々が手を数時間おきに消毒するというのは、細菌の世界から見たらものすごい大規模侵略&虐殺になるはずだ。

細菌も命あるものだからとかいうことではなく、目に見えない細菌は私たちの知らない均衡の上に成り立っていると考えると、私たちのこの潔癖とも言える消毒行為によって、その絶妙なバランスが崩れ、これまで抑えられていた細菌が大繁殖するリスクが高くなると思うからだ。それが私たちに直接的な症状を起こすものでなければ、私たちがその事実に気づく頃には、もう手遅れになっているほどに細菌バイオームの構成が変化してしまっているだろう。

無責任な仮説を述べるとすれば、他の対抗するウィルスがいたほうが、COVIDの広がりを抑えられる可能性だってあるだろう。手洗いうがいが大事であることは認めるとしても、毎回アルコール消毒をする必要が本当にあるのだろうか。もっといえば、そもそも子供達が学校で一緒に1日過ごすのに、毎時間手を洗わせることでCOVIDは防げないと思うのだ。むしろ、子供達の肌の常在菌バランスが崩れてしまうだけなのではないか。

昨年の秋頃に、細菌関連の本を2冊ほど読んだ。

あなたの体は9割が細菌

すべての不調をなくしたければ除菌はやめなさい

これまでも藤田さんの著書などで、腸内環境や腸内細菌によって免疫に影響があるというのは知っていたが、腸内細菌が脳神経にまで影響するという新しい発見や、私たちが「自分」だと思っているものの一部は細菌による作用だったりすることを知った。そういう視点から考えると、むやみやたらな消毒は、人間自身への攻撃に他ならない。

消毒=是という考えもまた、バランスが崩れたものだと思うので、そこをもう少し考えていきたいし、今のこの集中消毒による細菌バイオームの変化を意識して見守っていきたい。こちらの記事を読んでそんなことを考えた。

 

天下無敵

成長率がマイナスだとか、減益だとか、リーマンショック以来の危機だといった文面をよく目にする。

おそらくは今生きている人間の誰一人が経験したことのないようなパンデミックを前にして、これまでの状態での経済と比較して、今の危機を表現することの意味はなんだろうか。

そもそもの前提(グローバルな取引、物流、人の移動ができない、普通の経済活動ができない)が崩れている今、これまでと同じ基準で成長率をはじき出して、それがマイナスだと騒ぐことに意味はあるのか。

内田樹氏は著書『修業論』の中で、「天下無敵」という言葉の独自の解釈を述べている。すなわち、「天下無敵」の「敵」とは「全ての敵を斃す」という意味ではなく、「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」であり、したがって「天下無敵」の意味するところは、敵を「存在してはならないもの」ととらえずに、特段気にしないという心的態度のことである、というものである。

 

私たちの「最初のボタンのかけ違え」は、無傷の、完璧な状態にある私を、まずもって「標準的な私」と措定し、今ある私がそうではないこと(体調が不良であったり、臓器が不全であったり、気分が暗鬱であったりすること)を「敵による否定的な干渉の結果」として説明したことにある

因果論的な思考が「敵」を作り出すのである。

『修業論』内田樹著

 

ウィルスに善悪はない。

「こうあるべき」と考えるから、現状が「危機」になる。今の状態でできることは何か、今の社会が回っていくとはどういうことか。

これまで常識だと思っていたものを捨て、今ある現実から新しいパターンや機会を見出す。それこそが、この前代未聞のパンデミックを「敵」とせず、乗り切る方法なのではないか。

言うは易しであることは百も承知だが、今この時こそ、この天下無敵の視点が本領を発揮するはずだ。前提を疑い、思い込みを捨て、現状に集中して、できることを為す。そうすることでしか、新しい道は拓けないのだから。

時間を過ごすための家

 

新型ウィルス騒ぎが起こる前、知り合いのフランス人共働き家族の1日は、次のような感じだった。

仕事が早く始まる父親、仕事は少しあとだけれど子供を学校に送っていくため早く家を出る母親。子供達は急いで朝ごはんを口に流し込む。朝食の食器を食洗機にセットし、毎朝7時頃にバタバタと順番に出かける。

昼間、家には誰もいない。時々、通の家政婦が掃除に来るくらいだ。子供を学童に迎えに行った父親か母親が帰宅するのが夜7時頃。そこから夕飯の支度をして、子供の宿題をみて、シャワーを浴びせて寝かせる。子供が寝るまでは時間との戦い。子供が寝てからやっと、大人の時間ができるが、翌朝もまた早いので、それは3、4時間の話。夫婦で映画を見たり、喋ったり、それぞれネットサーフィンでもして過ごせば、あっという間に1日が終わる。

平日5日間がそんな感じで過ぎていき、週末も買い物・洗濯・掃除・イベントで過ぎていく。彼らが家族皆で家で過ごす時間というのは、実はそのほとんどが寝ている時間なのだ。

家は寝るための場所と割り切っていれば、それもいいだろう。でも実際には、多くの人が家にこだわり、間取りにこだわり、住居に高いお金を払っている。我が家も例に漏れず、ローン返済中。そうであれば、今のこの外出禁止期間は、これまで外で仕事をしていた人々が、高い対価を支払って手にしている住居を満喫する機会と考えることもできる。寝るだけの場所ではなく、時間を過ごすための場所としての住居を満喫する期間なのだ。

この騒ぎが収束しても、人々が家に求めるクライテリアは以前とは大きく変わるだろう。物も人も集中している都会に住むメリットが大きかった以前と比べて、人が集中しているからこそのリスクや場所がないというデメリットを気にする人が増えるだろう。インターネットと郵便事情さえ整備されている地域なら、割と多くのことを問題なくこなして暮らすことができるということに気付いた人も多いはずだ。車を持つことも、以前はネガティブな印象が強くなっていたが、公共交通機関のリスクが露呈した今、一人で好きな時に好きなところに行ける交通手段の価値というのも見直されると思う。

これまでの世界は、場所によって多少の差はあっても、基本的には都会への一極集中だった。今後も都会の便利さや物理的な機会の多さと言った部分は変わらないだろう。だが、新型ウィルス騒ぎで新しいクライテリアが加わることで、今までよりは地方に向かう流れが強くなるのではないか。新型ウィルスがある程度落ち着いた時こそ、過疎化に悩む地域に就労世代を呼び込むには絶好のタイミングかと思う。

2018年まとめ

年は明けてしまいましたが、2018年のまとめ。

・コブ留学

我が家の2018年の一番大きな出来事は、長男コブが9月から日本に留学したこと。留学といっても、日本人でもあるので普通に学校に通うだけだけど。妹家に1年間居候です。コブ自身が、いとこのお兄ちゃんと一緒にいたいといって希望したので、親と離れることについてはさほど心配していなかったのだけど、1年生の時に体験入学した時は、日本の小学校が好きではないと言っていたので、学校がどうなるかと心配していた。が、杞憂でした。週末学校ないのが残念っていうくらい楽しいらしい。まあ、給食だって絶対日本の方が美味しいし。イベントだって、理科の実験とか美術音楽とか、日本の授業は面白いこともいっぱいあるもんね。

残された弟二人は、それぞれの立ち位置を確立するまで試行錯誤していたけど、数ヶ月経ってだいぶ落ち着いてきた様子。それでも次男のラムは、一番上になることにうんざりしているようで、早くコブに帰ってきてほしいらしい。でも友達のお母さんとかからは、こんなに生き生きしているラム君見たことない!と言われるほど、生き生きしてるんだけどね。ずっとお兄ちゃんと同じことを、負けまい負けまいと頑張ってきたからこそ、自分でゼロから選んでいくこの1年の経験も、きっとかけがえのないものになるはず。

日本で10歳を迎えるコブ、一体どんな風になってフランスに戻ってくるのだろう。

 

・Kindle Paperwhite&Kindle Unlimited

気になる本を一時帰国の度に買いまくっていたら、置き場所がなくなってきたので、日本語も読めるPaperwhiteを2018年の誕生日に購入(これまで持っていた初代Kindleは日本語非対応)。フランスAmazonで買ったけど、もちろん日本アカウントで使用。今後は「気になったらKindle版で試し読み→購入→本当に気に入ったら本を購入」ということにした。

その後、知り合いからのおすすめ本の和訳本を探していたら、Unlimitedで無料になっていたので、これはいいかもとKindle Unlimitedにも加入。その後1年弱購読。

Unlimitedは日本の図書館や本屋さんに行けない身としてはとても嬉しいサービス。フラフラと色々立ち読み気分で読める。新しい本も色々対象になっていたりする。

難点は、雑誌が対象に入っているけど、Kindleで読むのがあまり現実的でないこと。タブレット併用してる人なら問題ないかと。あとは、あまりレベルの高くないKindle本(ブログまとめただけとか)が多すぎて、いい本を探すのが難しい。これはAmazonの検索が見にくいせいもある。

で、そんなに大幅には対象範囲も変わらないので、1年弱で面白そうなものは読み尽くした感もあり、昨年末に解約。

今後はついつい購入してしまうのをどう抑えるかが課題。

 

・ビオトープ

これまでも鳥用に、庭に古い鍋を置いて水を溜めてあったのだけど、夏はどうしてもボーフラが湧くし、水底がヘドロのようになってしまう。ということで、これは魚だな、という結論に。ナントの冬でも屋外越冬可能な生物でこちらで購入できるものということで、アカヒレとレッドシュリンプを選択。微生物の住処となるように、水底に10cmくらいPuzzolaneを敷いて、水を溜めたところ・・・数ヶ月経っても水は綺麗なまま!6月頃にアカヒレを投入し、なぜか古いベビーバスと150ℓのプラ池も増え、夏を越える頃にはアカヒレもレッドシュリンプもたくさん繁殖した。

入れた覚えのないカイミジンコ、イシビル、逆巻貝とラムズホーンも、いつの間にか存在していた。そして夏の終わり頃、水底にヤゴを発見し、アカヒレが食われるかと危惧したけど、糸トンボのヤゴと判明。魚は大きすぎて食べないそうなのでそのままにしておいたら、数週間後に脱皮したてを発見。数時間後に飛び立っていきました!

全然餌をやらないのに、こんなに逞しく育つものなんだなぁと感心。私たちの目にはただの水にしか見えないけど、色々な生き物が存在しているのだろう。昨日一昨日と氷が張っていたけど、無事に越冬できますように!

 

・褌ならぬゆるり下着

ヒモトレ革命」を読んで、たすき掛けするようになったのが2018年始め。冬で着込んでいるので、下の方にたすき掛けがあっても全く気にならず、つけていることを忘れるほど。でもあれ、なんか今日は肩が凝るなと思うと巻き忘れているということが数回あったので、忘れていても効果がある様子。

もともと高校生くらいの時からブラのアンダーバストの締め付けがダメで、ゆるいスポーツブラとかしか使ってなくて、フランスに来たらノーブラの人もいっぱいいるし、誰も気にしてないと自分もずっとノーブラ生活だったのだけど、日本人と会うとやっぱり相手は気になるみたいで申し訳なく感じることが数回あったので、ふと、もしかして紐のブラがあるのでは!?と探してみたら、ありました。バリ島に移住した日本人が作っているRunguのゆるりシリーズ。甲野さんの本で褌にもずっと興味があったので、これはもうやってみるしかない!ということで上下とも早速注文。

試しに数着ずつ買ったのが4月。その後これじゃあ足りない!と夏に買い足して、今も毎日活躍中。紐なので、当然ながらどこも苦しくない。だからつけたまま寝られる。トイレは解いてって書いてあるけど、私は結んだまま上げ下げしてしまっていることが多いかな。布ナプなので、生理の時はどうなるかとハラハラしていたけど、布ライナーを一枚かませて布ナプをつけたら、ほとんどずれない。ので問題なし。

ゆるり下着にして何か変わったか?と聞かれると、うーん、あまりはっきりとはしない。でも一度洗濯が追いつかなくて普通のパンツ履いたら、鼠蹊部が苦しくて1時間と履けなかったので(それで買い足した)、体はやっぱり違いを実感しているみたい。

唯一の難点は横が紐だけなので、冬場ちょっと寒いこと。ま、毛糸パンツとかタイツ履けば問題ないけど。

あとは、結果的にではあるけれど、ウェストがきつめのゴムの洋服とかが、もう絶対に着られなくなること。元々締め付けが嫌いだからワードローブには少なかったとはいえ、今まで普通に履いていたブーツカットジーンズも、あまり気持ちよくなくなって履かなくなってしまった。そしてズボンも紐調節ものはないかなぁと徘徊して、またなぜかバリ島に移住した別の日本人の方が作っている洋服に行き当たり、手作り服を購入。

ここ数年は化繊で肌が痒くなってしまうようになったので、肌着はシルクか綿オンリーで、これがフランスだとなかなか見つからなかったのだけど、こうなってくると洋服すらなかなか見つけられない。最後は結局自作に行き着くのかな・・・という予感がちらほら。

 

・3Dプリンター

これは私ではなく旦那。夏前に購入し、1週間くらいかけて組み立てて、以降休みといえばガレージにこもっています。デザインを決めたらそのものが作れるなんて、ドラえもんみたいな世界。子供達はあれ作ってこれ作ってと連日リクエスト。プラ作品(?)が増えすぎて、ちょっとうんざりしなくもないけど、私もビオトープのアカヒレのお家とか、仕切りとか、色々作ってもらいました。まだまだある程度の大きさのものを作るには一晩とかかかるけど、きっと数年後にはどんどんスピードアップして、あとはプラスチックごみからリフィルにする技術とかもきっと出てくるはず。それで最終的に全体のプラ使用量が減るといいな。

 

・音楽

2018年も音楽三昧の1年でした!6年目に突入したブルトン語コーラス、先日の講習会に参加した女性四声ミニグループ、夏から新しいピアノの先生の授業と9月から社会人大学の音楽史講座。2019年も引き続き、音楽まみれの一年になりますように。もっともっと歴史とか美術とか思想とか時代背景とか、そういったものと絡めて音楽を見られるようになるのが今年の目標。あとはもちろん、耳を開くこと、です。

 

・翻訳

ココナラでの翻訳サービスも5年目に突入。相変わらず色んな案件に日々刺激を受けている。世の中には、思いもよらない職業とか、研究とか、歴史とか、色んなものが溢れている。そういうものと繋がれるチャンスというのは、大事にしていきたい。

縁あって2019年からは、日本のとある出版社で翻訳の仕事をできることになった。しかも私は好きだけど儲からないから難しいと聞いていた論文専門!人生、どこで何がどう転ぶか、いつだって未知数で、これこそが醍醐味であり人生そのものだなと思う。

2019年、どんな年になるのかな。

続・紙に書く

明けましておめでとうございます。

2018年最後のバカンスは、初日の三男のガストロから始まり、クリスマス期間ど真ん中の1週間をかけて家族一周してから終わりました。比較的軽いガストロではあったけど、できれば2019年はかからずに済みたいものです。

ちょうど年を越すのと同時に、1年ちょっと前から始めていたBullet Journalの1冊目が終了。2冊目に突入しました。残りページが少ない!と気付いて焦って買ったら、方眼じゃなくて点々だったけど、まあものは試しってことで使っていきましょう。今回は日の短い冬でも気分を上げてくれるオレンジです。

以下、1年ちょっと続けての超主観的感想。

 

いいところ

・いろんなメモをここにまとめられるので、どこに書いたっけ?と迷うことがない

・色んなことを書き留める癖がつく

・書く時間を取ることが習慣になる

 

悪いところ

・考えるままに書くと字が汚くなる

・目次があるとはいっても、数ページごとに内容が変わるので、後から探すときに時間がかかったりする

・2冊目に入る今、今までちょくちょく参照してたページは新しいノートに写さないとといけない?

・A5サイズなので、持ち運びにはちょっとかさばる&重い

 

常時携帯電話を持ち歩く&眺めることに抵抗がある自分としては、予定を確認する時でも携帯以外の方法があるのはありがたい。私はWeekly Logだけ、予め見開き1週間で分割して日付を入れてしまっているので、そこは普通の週間手帳のように使っていて、正式なBullet Journalとは違うのだけど、例えば1週間の予定をみながら、「あ、ここら辺でこの準備しないと」とか「ここでまとめておかないと」とか、そういうことを自由に書き込めるのは、手書きならではだと思う。携帯は便利だし、私も使っているけど、ちょっと端っこにメモするとか、全体を見る、というのには向いてないと思うので。

どちらかといえば飽きやすい私が、1年以上続けられているので、それなりにハードルの低い、いい方法だと思います。とりあえずどんなのでもノートさえあれば始められるっていう手軽さもいいし。手帳難民の方はぜひお試しください。

ハーモニクス講習会

12月1日と2日の週末、女性4声+チェロのボーカルグループで「ハーモニクス講習会」に参加してきた。フランス語だと”Stage d’Harmoniques”という。

事前に歌仲間から色々と噂は聞いていて、歌声がどんどん変わっていく様は魔法みたいだとか、あまりの衝撃に泣き出してしまう人がいるとか、もはや宗教か?ってほどの感想もあったので、半分疑いながら参加してきた。

 

結論から言うと、確かに世界が変わってしまう経験だった。講習会の内容は、簡単に言えば「声」のハーモニクスを聞けるようにする、ということ。

人の声でも楽器でも、例えば「ミ」の音を出しても、実際には「ミ」だけでなく、そのほか様々な倍音や雑音がなっている。でも現代の音楽教育では、その多様な響きの中の「ミ」という音だけを聞いて「ミ」と判断する訓練をするので、そういう部分を聞く力というのは、だいたい6,7才あたりから衰えていってしまうらしい。

この講習会は、そうやって子供時代には誰もが聞こえていたのに、大きくなるにつれて脳のオートメーションで弾かれてしまうようになった音を聞いてみようというものだ。

何いってるのかわからないと言う方は、ぜひ下のビデオを見てみてください。

(ずっとニヤニヤしていて、すごいすごい言っていて、宗教のように感じるかもしれませんが、私自身、皆で歌っていてハーモニクスが聞こえると微笑まずにいられないので、この方の気持ちはすごくよくわかります。)

Dainouri Choqueという、フランスではその道で結構有名らしい方が講師だったのだけど、まさしくこのビデオの人のように、ハーモニクスでメロディを奏でていた。最初からハーモニクスのメロディが聞こえる人もいれば、最初は全然聞こえないのに、半日後、1日後、最後の最後になって聞こえるようになる人もいる。

 

まず初日、1日そうやってハーモニクスに耳を凝らして帰宅すると、子供達の騒ぎ声にエコーが聞こえるではないか!これまでもずっと毎日聞いていた、家での子供達の騒ぎ声が全く違って聞こえるのだ。他の人たちは「鳥の声」とか「風の音」とかが全く違って聞こえると言っていて、私はあまり情緒ない子供の叫び声だけど、それでもやっぱり聞こえ方が違う。

そして二日目。前日に引き続き、皆でバラバラな音を出してそれらを融合させて、その上部ハーモニクスに耳を傾けるという練習をしていたのだが、昨日までは自分の耳元で聞こえていた自分の声が、全然聞こえなくなっていた。そして融合した皆の声が、自分の体に入ってきたのだ。どれもこれもあまりに感覚的なものなので、言葉で表現するのは難しいけれど、あえて言えば、自分は自分の声を出しているのではなく、「融合した声」を響かせるパーツになったという感じ。そしてその時には、音の響きが耳元ではなく胸で感じられるようになった。

Dainouriさんが繰り返し言うのは、耳が開かれるようになると「自分の声が外で鳴るようになる」ということ。自分の声が自分の中から聞こえるのはなくて、まるで録音して流しているかのように、外で鳴っているように聞こえると。自分の声が聞こえなくなるのは、そこにたどり着くまでの過程だそうだ。さらに耳が開かれると、その融合した声の中にある自分の声が聞こえるようになるらしい。

 

ハーモニクスが聞こえるから何なんだ、という話もあるだろう。別に「ミ」だけ聞こえてればいいじゃないかと。

確かにそう言う考え方もあるだろう。実際、あまりにもハーモニクスが聞こえると、耳障りなこともあるし、どの音程を取るべきが判断に迷う時もある。自分の声が耳元で聞こえないと、自分の音程がよくわからなくなったりもする。

それでも、先ほどのビデオの人が力説しているように、ハーモニクスを聞けるようにするのは、すごく有意義なことだと私は思う。

私にとっての一番の理由は、自分と他人との境目がなくなるという、現在ではとても貴重な体験ができるからだ。複数の人の声が融合すると、自分の声というよりも、融合した声が自分の体に響くようになる。つまり、人の声も体の中から響く。これは、私にとっては素晴らしい体験だったけれど、ガードが固い人とかにとっては、非常に暴力的な経験になることもあるらしい。それで気が狂ったように泣き出してしまう人もいるらしい。そしてそれはすごくよくわかる。

それでも今日、あまりにも「私」という概念に凝り固まっている私たちには、こういう経験は非常に意義があると思う。

ここ数年、「体の使い方」に興味を持っていて、古武術の甲野さんの本を読んだり、そのつながりでヒモトレをやってみたりしている。その流れで読んだ内田樹著「修行論」に出てくる「我執を脱する」というのが、今回の経験を一番正確に表している言葉だと思う。合気道での組手は、相手と自分がぶつかるのではなく、二つが二頭龍のように一つになって動きが生まれるのだというところ。

3年目に入ったピラティスでも、先生がいつも言うのは「考えずに感じなさい」「脳が思い込んでいるオートメーションから自由になりなさい」ということだ。

つまり、私たちが「〇〇だ」と定義することで、弾かれてしまう様々な部分を、ありのまま感じると言うことなのだと思う。

私たちが思っているよりも、自分という存在は曖昧で、周りと混ざっていて、周りの影響を受けていて、そして自分が思っている以上に、自分は周辺部に存在しているのだろう。

 

この講習を経て、私にとって一番有益だったのは、自分のピアノに対するアプローチが変わったことだ。Dainouriさんが言っていたのは、声であれ楽器であれ、「音の発生→自分に戻ってくるエコー→発生源への作用→エコー・・・」というサイクルが確立されれば、安定するということだった。

私はピアノのタッチというものに気を配った記憶がなくて、正しく弾く(音程を)ということしか考えてこなかった。今の先生に習うようになって、音は正しくても、タッチがとか音色がとかという風に自分で気づけるようにはなったのだが、一体どうすればそこを改善できるのか、皆目見当がつかなかった。タッチを変えようと思って色々手の加減やら動きやらを変えてみればみるほど、袋小路に入り込んでしまう。

そして、今回の講習を経て気が付いたのは、私があまりにも音の発生源である手や指に集中しすぎていたと言うことだ。集中しすぎるあまり、私はピアノから出た音の響きに耳を傾けられていなかったのだ。集中することによって手が緊張してしまっていたこともあるだろう。

日曜日の講習のあと、試しにピアノを弾いてみた。それはまるで違う楽器だった。こんなにも表情があるのか。こんなに強く弾かなくても、こんなにも響くのか。これもまた、言葉では言い表せないものだけれど。

同じ楽器でも、弾く人によってまるで楽器自体が歌っているようだったり、耳を塞ぎたくなるような音が出たりする。それを私たちはテクニックによるものだと思いがちだけれど、実はそれは演奏者の耳が、どれだけ音に開かれているかによるところが大きいのかもしれない。

平和の解剖学

真夜中、子供部屋で赤ちゃんが泣いているのが聞こえてくる。
「起きなくちゃ」と思うけど眠くて起き上がれない。
隣で寝ている旦那はびくともしない。
自分は今晩だけでももう2回寝かし付けをしている。
おむつでもミルクでもなく眠れないだけなんだから、
私じゃなくてあなたが行ってもいいのに。

そんな例えをこの本のレビューで見かけて、まるで自分のことかと思って驚いた(もう数年前の話ではあるけど)。

そしてこの例が、心が穏やかさを失う瞬間なのだと今は分かる。

子育てという、エンドレスにタスクが生まれる状態にいると、どうしても自分の直感に逆らって、それを正当化したくなる場面が増える。子供が泣いているから行かなくては、という直感。でもその直感のまま行動できず(疲れとかのせいで)、代わりに(自己正当化する方法として)非難対象を探してしまうわけだ。

私たちの日常には、こんなシチュエーションが溢れている。イラっとする場面。そこから夫婦が、友達が、家族が仲違いしていく。

もう何年も前に初めて読んで、そしてこれまでに何度読んだかわからないこの「平和の解剖学」(なぜかそのままの和訳本は存在せず、「自分の小さな「箱」から脱出する方法 」というよくある自己啓発本みたいな題の本が一番内容が近いと思われる)。

実践できています、とは全く言えないけれど、何かしらでイライラしたり鬱々するたびに、自分は今、もしかして箱に入っているのではないか?と問いかけることで少し冷静になれる。

私の人生を変えた本の中の1冊でもあるので、頭の整理も兼ねて、以下に自分の読書メモを。

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問題を解決するには、間違っている部分を正そうとするのではなく、ものごとが正しく進むようにサポートする必要がある。

問題となるのは行いそれ自体ではなく、さらに深い部分、心持ちそのもの(すなわち心が穏やかな状態なのか戦闘態勢なのかということ)。
穏やかな状態で行えば、戦争でさえもより人間的に行える(サラディンの例)。問題のほとんどはconflictではなくcollusionである、つまり自ら相手を挑発している。

穏やかな状態なのか戦闘状態なのかは、すなわち相手を自分と同等の人間とみなしているか否かの違いである(Buberの’I-It’か’I-Thou’)。後者の場合、相手を人間とは見ずに、自分にとっての障害物とみなしたり、ステレオタイプ化、一般化(◯◯人は・・・など)してしまったりしている。

本来私たちは、直感で前者の目線で相手を見られるはず(ここは本書は性善説的)だが、その直感を自分で否定した場合、自分で自分を正当化する必要が生じて余計に防衛的になり、結果として、相手に対してより攻撃的になる。そして自分の行った攻撃をさらに正当化する必要が出てくるというスパイラルに陥る。
※ただし最初の直感以前にその相手に対して戦闘状態になっていれば(先入観など)、直感も沸いてはこない

よくある正当化のパターンは下記の4つ。
1.他人を見下すことで自分を正当化
2.被害者意識、自分はこんな仕打ちを受ける義理はないと考えて自分を正当化
3.良い人面をすることで正当化
※hyperactive体面保持(やらなければと思うことが多すぎて手に負えなくなる、そのせいで心の平穏が失われる)も3の一種
4.自分を卑下することで自分を正当化

人によってどのパターンに陥りやすいか等の傾向はあるが、これらは自分の心を理解するためのサブカテゴリーであって、どのようなパターンであっても結局は自分の直感を否定して、それを正当化するために行っていることであるという意味では同じ。

反対に、たとえ自分の直感を行動に移すことができなかったとしても、「できなくて残念だった」と思えるのなら問題ない。人生とはそういうもの。できなかったことを正当化して相手を責め始めるから、心が戦闘状態になってしまう。

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自分では、箱に入っていないつもりだったのに、まさしく2,3あたりの箱にどっぷり浸かっていた時に、そうでない友達の受け答えを見て感動したというエントリーを以前に書いた。

先日、「子供の感情」というテーマの討論会に参加した時、自分の体験を語る順番が回ってきて、繊細なラム君に、何か良かれと思ってやっても、結局本人が満足することがなく、延々と続くので、最後はこっちが怒って終わってしまうという話をした。児童心理士の人が言っていたのは、「自分の心と行いの一貫性が大事」ということだった。

子供のためにやってあげたい、という思いが、どこかの段階で、もう面倒臭いな、とかに変わったはず。そこで、子供のためだからと無理に続けるから、最終的に怒ることになると。それはすなわち直感のまま動くということと同じなのか。

「ごめんね、ママもう疲れちゃったから、一人でやってくれる?」と言えばいいのよって、その先生は言っていた。そうか、ちゃんとできない自分を自分が認めてあげられれば、旦那にも子供にも、無意味に喧嘩を売らなくて済むということなのだな。

何年経っても、全然前進していない自分にちょっとがっかりするけれど、この本に出会っていなかったら、自分はもっといろんなことにピリピリ目くじらを立てて、怒っている人間になっていたと思うので、これからも何度でも読み直していきたい一冊。

想い

日経オンラインを読んでいて、一つの記事が目に止まった。

破格の国産ワイン 造リ手は早大中退のシングルマザー

早大、ワイン・・・もしかして。

読み進めると、やっぱり!!!ぶどう収穫隊参加者だった。多分年度は違うけど。

 

ぶどう収穫隊は様々な私大でフランス語を教えるワイン好きの先生たち4名が企画運営していた、大学生向けのフランスワインツアーだった。大学2年目のフランス語の担任がたまたまその中の一名で、ほとんど話したこともなかったけど、フランスに行くチャンスとばかりに同じクラスの友達と一緒に参加した。私にとっては初めてのフランス、ヨーロッパだった。

ツアーは確か3週間ほど。フランス各地のワイナリーを巡って、最後はコルシカ島でぶどう収穫を手伝うというものだった。家族とは別に海外に行くのは、多分これが初めてのことだったと思う。パリはもちろん、ボルドー、ブルゴーニュ、色々なところを回った。ワインは飲めない下戸だったけど、口に含んで味わってから出してもいいということで試飲もした。ぶどう収穫はなかなかの重労働だったけど、初めてのことで楽しかった。先生も教室で見るのとは全然違って、昆虫オタクだったりオヤジギャク連発だったり。

自分も含めて海外は初めてとか、実家から出たこともないような学生たちを40人近く連れてフランス中を周るなんて大変だろうに、先生たちも物好きだなぁと思ったのを覚えている。

先生4人の中の中心で隊長と呼ばれていたのが、早稲田大学の加藤先生だった。加藤先生はもちろんフランス語が上手で、でも何よりもとても素敵な声の持ち主だった。低いけど柔らかく、少し鼻にかかった声だった。ワイナリーの人の説明を詳しく日本語に訳してくれたり、私たちの質問を通訳してくれたり。学生たちにも気さくに話しかけてくれて、いつも笑顔だった。移動中のバスの中、音楽が好きという話になったら、コルシカ民族音楽のi muvriniを教えてくれた。それは後日購入し、今でもよく聞く。

収穫隊は何年も続いていて、時々同窓会のようなものもあったらしい。私はその後音楽の方にのめりこんで学校にはほとんどいかなくなり、卒業後もすぐに渡米してしまったため、ほとんど参加できなかった。時々、コルシカワインの購入希望のメールなどのやりとりで、隊長と連絡をとっていた。

 

「春に亡くなった先生の遺稿小説に文を寄せることになっていて、それが30日までの締め切り。その先生とのつながりを思うと、なかなか文にならなくて。

しかしほんと人って不思議だよ。生きてるんだなぁ、心の中で。」

 

数年後、隊長にメールで入籍を報告した。隊長からのお祝いメールは次のように締められていた。

 

「お元気で。そして何もなくても、時にはメール下さい。」

 

それなのに、なぜだろう。

アメリカでの生活が始まり、仕事が始まり、そのうちに妊娠してフランスに引っ越して子供が生まれ、慌ただしく毎日が過ぎて行く中で、私は一度も隊長に連絡を取らなかった。

そして2013年の年明け、実家に届いたお別れ会のおしらせで訃報を知った。前年の11月に、くも膜下出血で亡くなったとのことだった。

 

私は隊長が大好きだった。頻繁に会うことはなくとも、その人が今日も元気で別の場所で楽しく生きているのだと思うだけで、自分の一日が楽しくなるような、そんな人だった。

それなのになぜ、連絡を取ろうとも思わなかったんだろう。そのうち、そのうちにと思っているうちに5年以上が過ぎてしまった。「何もなくても」って、わざわざ言ってくれたのに。

訃報に呆然としながら、過去のやりとりを読み返して、上の言葉たちを見つけた。

 

不思議だよ。生きてるんだなぁ、心の中で。

 

私は隊長への返事にこう書いた。

以前は、自分は自分自身で確固として存在するものだと考えていたのですが、他人に映る自分の複合こそが自分であり、自分が散った後も残っていくものなのだと最近考えています。
だからこそ、自分が消えてからも誰かの心の隅っこにいさせてもらえるような生き方をしたいです。

冒頭のワインの造り手の心の中にも、隊長はしっかりと生きていることだろう。

私にとって、どこまでも目標のような人であり、生き方であったのだと思う。

ワインが好きで、学生を連れて行くようになり、その中の一人がついにはワインの造り手になった。しかも世界中から注目されるような日本産ワインの。

隊長は、きっと今頃、祝杯をあげているのだろうか。